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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
もう
あまりにも昔のことで、いつ頃のことかも、何の番組だったのかも失念しましたが、
今ほど“ゴミ屋敷”という言葉が一般的でなかったほど昔に、確かイギリス郊外の
まさに“ゴミ屋敷”としか言いようのないガラクタに囲まれた廃屋に住む老人が、
何処からか運んで来たグランドピアノの脚部や屋根を外し、響板部分だけを立てて、
響板に張られた弦を指でテキトーになぞって「宇宙の響きだ」と言っているシーンを
観たことがありますが、その老人の行為には「一体何をしてるんだ?」という思いを
それから何年かして、上記の老人の行動と
真逆の取り組みを耳にし、それは“美音”であるとともに、
後年別の理由から改めて、それは「物凄い演奏」であったと痛感させられたり、
類似の考え方を聞かされ、それは“騒音”と紙一重であると感じさせられた出来事が
ありました。
ということで
既述の老人の行動と真逆の取り組みというのは
あなたがヴァイオリンの練習で勘違いしていること ~その1~』で書いた
録音より遥かに美音だったカラヤン指揮ベルリン・フィルの生演奏のなかでも
その美音が更に際立っていた1981年にNHKホールで行われた演奏は
初めの演目がベートーヴェン/交響曲第6番『田園』で
もう一曲はチャイコフスキー/交響曲第6番『悲愴』という[6]繋がりの公演で、
その『田園』の冒頭の数音を耳にしただけで、あまりの音の美しさに眩暈がした
その『田園』の第一楽章の最後で、クラリネットがアルペジオを吹き始める直前の
具体的には
その和音は八分音符+八分休符で、その和音の直前は弦楽器がppで演奏しているのに
カラヤンさんが握り拳を前に突き出すので「ppなのに一体何故?」と思っていると
その和音の八分音符で求める長さだけ、前に突き出した握り拳を開き
その和音の八分休符のところになると、前に突き出した握り拳を閉じ
その指示にベルリン・フィルのメンバーも一糸乱れぬアンサンブルで応じた結果
響きが良いとは決して言えないNHKホールに壮麗な和音が悠然と鳴り響き渡り、
それにより、その和音は勿論のこと、その直後のクラリネットのアルペジオも
より一層その美音が引き立てられるのを目の当たりにしたのです。
ちなみに
今では多くの人達が日々使っているICレコーダーやスマートフォンで
自らの演奏、それも複雑で難しい曲ではなく単純で易しい曲…ですらさえなく
既述の演奏会はFMで放送されたため、エアチェック(放送の録音)をされた方が
ネットにアップされた録音を今現在でも聴けますが、残念ながら眩暈までした冒頭の
“美音”もそこには聴かれず、上記のように不自然な行為までして客席に届けていた
ソステヌートの様子もわからず、さらにはオーケストラのメンバー全員がフレーズ毎
に一斉に息を吸っていた音すらさえも殆ど聴こえません。
ですから
今日遺されているセルの録音の殆どでは、何か潰れたような音しか聴かれませんが、
録音より遥かに壮絶だったムラヴィンスキー指揮レニングラード管弦楽団の生演奏や
録音より遥かに美音だったカラヤン指揮ベルリン・フィルの生演奏を耳にした際の
思い出なとどは違い、実際の生演奏で耳にしたセル指揮クリーヴランド管弦楽団の
まさに最期といえる時の演奏は、よい意味で異様な、まるで清流を思わせるかの如き
只管に澄み切った響きであるが故に、微妙なニュアンスや僅かなアゴーギクまでもが
とても自然でありながらも明瞭に聴衆に伝わる演奏であった…と書きましたが、その
ように生演奏では聴かれた響きや音の多くが、録音では欠落してしまうことを痛感さ
せられます。
上記の八分音符の和音の音の長さまで示す指揮と、それに応えたベルリン・フィルは
凄い演奏をしている…とその時は思ったのですが、実はそれは凄いどころではなく
「物凄い演奏」であったということを痛感させられたのが、後年別の理由と既述した
出来事でした。
それは
私のサイトのプロフィールにも書いたように
NHKの番組や演奏会へ出演するようになった際には
NHKホールでも当然演奏しましたが、驚いたのはそのホールの舞台上の様子で、
まずTVで観るのとは違い、実際はその舞台が非常に狭いことに驚きました。
更に驚くべきは、客席とは違って、その舞台上でのみは比較的響きが良い音がして、
そうしたこともあって、専らそこで演奏している某・オーケストラ(笑)の演奏は
そうしたTVで観るのとは違う舞台の狭さから、その演奏が何かせせこましくなり
そうした客席で聴くのとは違う舞台の音の良さにのみ安住してしまっていることも
その某・オーケストラの演奏の響きが厚みの無い音になってしまっている一因だと
(なお、上掲の写真では、既述の当時とロゴが違います)
つまり
NHKホールは、客席とは違って、その舞台上でのみは比較的響きが良いために
専らそこで演奏している某・オーケストラ(笑)はそれで十分としているのに対し、
既述のカラヤンさんとベルリン・フィルは、そのようにNHKホールは舞台上だけは
比較的響きが良いものの、それに甘んじていては客席に良い響きは届けられないので
既述のような不自然な行為までしていたのだということがわかり、その時改めて
既述のような不自然な行為までしていたカラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏は
「物凄い演奏」であったということを、痛感させられたのです。
(もっとも更に後年
あなたのヴァイオリンがきちんと響かない決定的な理由』で書いたように
カラヤンさんとは、何度もリハーサルを見学させていただいたり、お話しする機会も
多かったことが縁で、僅か数公演ながら演奏に参加させていただいたことがあり、
勿論、進化と劣化の両面で当時と現在では様相を異にする部分も多くあるなかで、
当時のベルリン・フィルでは、ある点で「物凄い演奏」などというレベルではなく
「途方もない演奏」をするオーケストラだと痛感させられることがありましたが、
それについてはまた機会があったら書きたいと思います)
そのようにNHKホールで演奏したり、NHKの音楽番組で弾いたりしていた時は
番組のほうは頻繁にオーディションがあり、演奏会のほうは毎回曲目が沢山あり、
演奏技術はともかくも、演奏経験という点では未だまだ演練が浅かったことから、
少しでも空いた時間があれば、空いているスタジオや、製作スタジオの廊下などで
『もはや仙人(笑)? プロも習いに来るヴァイオリンレッスン』で書いたように
譜面の山と格闘し、多数の演目を只管に復習いまくっていました。
(なお、上掲の写真では当時と違い、STUDIO PARKのマークが見えます)
そんなある日
その某・国営放送(笑)の名前を冠したオーケストラの名誉顧問で、かつて従軍記者
として活躍後、大河ドラマを創設し“NHKの天皇”と呼ばれた専務理事が、朝の
連続テレビ小説に起用した新人女優さんと、理事のS氏とともに製作スタジオから
出て来たところ、私が必死にヴァイオリンを復習っているのを、面白いと思われたの
か、哀れと思われたのか(笑)声をかけてくださったのが縁で、収録の合間によく
5食(と書けば関係者の方はわかると思います)で一緒に食事をしていたことは、
以前のブログの記事の『温故知新~その1~』で書きました。
(なお、上掲の写真では既述の当時とロゴが違い、STUDIO PARKのマークも見えます)
そうした際
そのS氏とNHKホールの音響について話す機会があり、私が「初めてNHKホール
の舞台に出た際に、テレビで観ているのよりも遥かに狭いことにも驚きましたが、
それ以上に、今までは客席でしか聴いたことがなかったNHKホールが、舞台上では
音が良いとは知りませんでした。けれども、舞台上で音が良いのに、なぜ客席は音が
良くないんですか?」と、若気の至りとはいえNHKの理事に対して失礼極まりない
質問をしたことがありました。
すると
S氏は「それはそうだよ。舞台から客席まで全部良い音にしようとしたら予算が足り
ないし、それに客席の総てを良い音にするのは設計上とても難しい。だから、放送で
収録する舞台上だけは良い音にして、客席はその場で上演を観に来られたんだから、
それでいいだろうということで、音についてはあまりこだわらない設計にしたんだ」
との回答には、何か釈然としないものを感じつつも、限られた予算のなかでは仕方の
ない選択だったのだろうとは思いました。
さらに
私がその直前にジングル(番組の節目に挿入される短い音楽)について、良いものも
あれば、疑問や不快に思うものもある、などという話をしていたことにも関連して
S氏は「コンサートホールで聴く音よりも、例えば風の吹く音や、水の流れる音など
他に素晴らしい音は幾らでもあるのだから、ホールで収録した音だけでなくて、そう
した美しい音も、番組として折に触れて放送したい」と仰られたことに対しては、
私は冒頭既述のかつての“ゴミ屋敷”の老人の行為と紙一重な話のように思いました。
つまり
神羅万象が発する物音の中から人為的に響きを選んだものが音楽であるのに対して
神羅万象が発する物音そのままであるのが風音や水音などの自然の響きであるので、
そうしたそのままの物音には、人為的な行為では取りこぼしている素晴らしい響きも
存在するので、S氏が仰ったように音楽よりも自然界の音のほうが素晴らしいと感じ
ることがあるのだと思います。
ところがそうなると
音楽というものは上記のように、神羅万象の物音から人為的に響きを選ぶとともに
そのように人為的に響きを選ぶ行為によって“騒音”ではなく“美音”を目指し、
自然界における音というものは、神羅万象の物音から人為的に響きを選んでおらず
そのように人為的に響きを選んでいない点が“騒音”ではなく“美音”となるなら、
既述の単純に弦を指でテキトーになぞっただけの老人が発した音は
人為的に響きを選んでいない点で音楽にはならず“騒音”になってはいるものの
人為的な響きの選択をしていない点では自然界の“美音”と同類とも見做せる点で
“騒音”と“美音”は紙一重であるように思いました。
ということで
冒頭既述の“ゴミ屋敷”の老人が指で弦をテキトーになぞった行動と
真逆の取り組みとしてのカラヤンさんの“美音”を耳にした際にも驚きましたが、
NHKホールの舞台上の音と設計思想から、それは「物凄い演奏」だと痛感しつつ、
S氏の仰られたことから、“騒音”と“美音”は紙一重だと感じさせられたことで、
音響としての音をただ自然に連ねたのでは、それは“騒音”にしかならず
音響としての音を作為的に連ねた音楽のなかにこそ“美音”が存在する…というより
音響としての音を作為的に選ぶことで音楽が生まれ“美音”が“美音”としての存在
を得られるのだと思うようになりました。
そしてそれは
私のサイトのヴァイオリンの音程の取り方のページにも明記したように
重音、旋律、旋律の前後関係において同じ音符でも音程が異なるものの
何れの場合も最も良く響くポイントとして音程を定めることができるので
それぞれに相応しい音程を、そうしたポイントから一音いちおん選び取る必要がある
ということと全く同義であると考えています。
従って
音響としての音を作為的に選ぶことで音楽が生まれ“美音”も生まれるというのに
音響としての音を作為的に選ぶ=音程の取り方という根本も踏まえずに…というより
そうした根本を学べていないのを知っていてヴァイオリンを奏でている人達こそが
『ヴァイオリンが上達したいのに上達したくない人達?』で書いたように
曲を弾き進めていたとしても、上達という観点では先には進めておらず
そのようなヴァイオリンごっこではヴァイオリンが本当には上達できない原因は
ヴァイオリンの音程の取り方が習えていないからだ…とわかってもなお
上達していないという問題点が存在しないかのように、見て見ぬふりをし
はたしてあなたは
“騒音”は不自然な行為から生まれ
“美音”は自然な行為から生まれる……と勘違いしていたでしょうか?
あるいは
“騒音”は自然な行為から生まれ
“美音”は不自然な行為から生まれる…と感じていたでしょうか?
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カテゴリ: ヴァイオリン上達の指標