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イワモト ヴァイオリン教室のブログへようこそ。
イワモト ヴァイオリン教室では
「正しい音程」 (正確な音程)
「本格的な音色」(美しい音)でヴァイオリンを弾くための
基礎的な演奏技術を大切に指導し
一音いちおん丁寧に
各人の進捗に合わせた課題をレッスンしています。
『ヴァイオリンの松脂(松ヤニ)の正しい塗り方 襤褸(ボロ)が出る』で
ヴァイオリンの音程の取り方と称して音程の取り方自体を実は教えていなかったり
ヴァイオリンの音程を取るのにチューナーやピアノを使うという愚行など序の口で
教師とは名ばかりで、実はそれっぽい(笑)ことだけを言い初心者を誑かしていたり
生徒のレベルや学習年月によらず、調弦は医師の問診に匹敵し
病状や通院歴にかかわらず、問診を行わずに席を外したりトイレに行く医師など
居る筈もない…というより、そのような行為は診察において有り得ないのと同じで
レベルや学習年月によらず、調弦を検分せず席を外したりトイレに行く先生も
居る筈もない…というより、そのような行為は指導において有り得ないのですが
もしかすると調弦を検分せずに…という先生も居たりするのかも…とも書きました。
調弦を検分せず席を外したりトイレに行く…などというのは愚行でなく論外ですが
調弦それ自体についても
2つの開放弦が正確に完全5度で調弦できている…などということは
知らずわからず習わずにヴァイオリンを教えたりしているに違いないのです。
またもうひとつは松脂の塗り方で
第一に、松脂は細かく動かしながら擦り付けることで細かい粒子として弓毛に付着し
第二に、松脂は弓毛のどの部分にも同じに塗ることで右手の制御が安定することから
松脂は細かく動かしながら弓毛のどの部分にも同様に塗らなければ意味がなく
『モーツァルト/ヴァイオリン協奏曲 第3番 カデンツァ』でも書いたように
かつて四郎先生(私達門弟は、鷲見四郎先生のことを、今でも尊敬を込めてこう
お呼びします)のところにも来日した時にはしばしば練習をしに来ていた
フランク・ペーター・ツィンマーマンも、実際にそのように松脂を塗っています。
(下記アドレスをクリックすると
直後にわずか2秒だけですが、そのように塗っている映像が映ります)
(残念ながらリンク先のYouTubeの画像が見られなくなりました)
(ちなみに
既掲のツィンマーマンの動画も暫く観進めると
松脂を細かく動かしながら塗った後にスゥ~~~ッと戻している場面がありますが
(残念ながらリンク先のYouTubeの画像が見られなくなりました)
それは細かく動かしながら塗った後に戻しているだけのことであって
弓先から少し手前の演奏でよく使う部分については
松脂を細かく動かしながら弓毛のどの部分にも同様に塗らなければならないのに
松脂を細かく動かしながら塗るのは弓元と弓先だけで
弓央の周囲では何故かスゥ~~~ッと松脂を滑らせてしまっているという塗り方では
弓毛の大半で本来の摩擦力は得られず、楽弦に押し当てることが常態化してしまい、
かつて三郎先生(やはり門弟達は、鷲見三郎先生のことを、今でも尊敬を込めてこう
お呼びします)が繰り返し仰られていた楽弓を楽弦に乗せて引き摺る感覚が得られず
その演奏はベ~ベ~ボ~ボ~としたものになってしまっているのに
さらには
そのように弓央の周囲ではスゥ~~~ッと松脂を滑らせる…という塗り方は
松脂をどの部分にも同様に塗っていないという塗り方の点で明白に誤りなのですが
塗り方には色々な流儀があるだの、弓元と弓先は塗り残し易いから多く塗るだの、
塗り方の決めつけは指導者の視野の狭さだのと、松脂ではなく弁疏を塗り重ねて、
自らの誤りを価値観の多様さの如くに話を塗り替えようとする者も居たりしますが、
それは
「音程に気を付けて」という台詞です。
それは
「音程に気を付けて」ということで、音程の取り方に気を使うことは大切でも
手の形や加減を論じ、チューナーやピアノを使って音を取らせるばかりで
ヴァイオリンにおける個別具体的な音程の取り方など指導することもなしに
「音程に気を付けて」でオシマイ…ということがどれ程無意味で可笑しなことかは
病を抱えている患者の具合の悪さに対する治療の話に置き換えると
勿論
「症状を聞いてもらって心が軽くなった」
「健康に気を付けるように注意された」
「生活習慣について指摘を受けた」ということで得心する人も居るのでしょうが
症状が出ているのなら、その個別の症状に対する具体的な治療が必要なことは
言うまでもありません。
挙句に
患者が症状を訴え苦しみ、そうしたことへの具体的な治療を求めてもなお
生活習慣や食事の食べ方や箸の持ち方の指摘だけで、個別の症状への治療はせず
「その場限りの治療でなく、考え方が大切」などと能書きを並べ立ててみたり
具合の悪さを完治させることもなく「具合が良いだけの生活ではつまらない」だの
「自分で気づいていない症状をわかっていただくのが治療だ」だの
「血行が悪ければ駄目で、私は血行にこだわっている」などと宣っていたら
勿論
「演奏を聞いてもらって心が軽くなった」
「練習態度について指摘を受けた」ということで得心する人も居るのでしょうが
音程が悪いのなら、その個別の音程に対する具体的な指導が必要なことは
言うまでもありません。
挙句に
生徒が音程の悪さに苦しみ、そうしたことへの具体的な指導を求めてもなお
練習態度や左手の形や右手の加減の指摘だけで、個別の音程への具体的な指導はせず
「その場限りの指導でなく、考え方が大切」などと能書きを並べ立ててみたり
音程の悪さを解消させることもなく「音程が正しいだけの演奏ではつまらない」だの
「自分で気づいていない問題をわかっていただくのが指導だ」だの
「音色が悪ければ駄目で、私は音色こだわっている」などと宣っていたら
ではどうして
患者が症状を訴え苦しみ、そうしたことへの具体的な治療を求めても
具合の悪い箇所を指摘するだけで、それに対する個別具体的な治療は施さず
幾許かの能書きと「健康に気を付けて」でオシマイ…などということは
有り得ないのに
生徒が音程の悪さに苦しみ、そうしたことへの具体的な指導を求めても
音程の悪い箇所を指摘するだけで、それに対する個別具体的な指導は行わず
幾許かの能書きと「音程に気を付けて」でオシマイ…などということが
なぜ罷り通っていまっているのかと言えば
病気の場合
個別の症状に具体的な治療を施さなければ、それは偽医者だと思われるのは
個別の症状に具体的な治療を施せる医師が街中に沢山居るだけでなく
もしも街中の医師で対応できなければ大学病院で治療を受けられるからですが、
個別の音程に具体的な指導を施せなくても、それが偽教師だと思われないのは
個別の音程に具体的な指導を施せる教師が街中に殆ど居ないだけではなく
これが街中の教師だけではなく音楽大学でも指導できる先生が皆無という
更に信じられない状況にあるからなのです。
では何故そのような惨状が蔓延しているのかといえば
『ヴァイオリンの重音の音程の取り方 ~その2~』で書いたように
ヴァイオリンという自ら音程を作る作音楽器では音程の取り方は基礎中の基礎で
その指導には正確な知識と緻密な観察に基づく訓練の反復が必須にもかかわらず
そうした指導を受けられない者や、そうした指導を受けたことがない者が巷に溢れ
兎に角ひいて弾いて弾きまくって徐々にそれっぽい音程に近づけているような人が
アマチュアのみならず音大卒生やプロのなかにも大勢居るという現実のためです。
さらには
ヴァイオリンは正しい音程で弾くと美しい響きで奏でられる…にもかかわらず
ヴァイオリンを正しい音程で弾いても音色が良くないとダメ…などという換言を弄し
“音色”という主観的に感じられる感性の分野に逃げ込んで隠蔽するために
“音色”“音色”と連呼している事例もありますが
それではヴァイオリンのレッスンなどではなく、ヴァイオリンごっこ(笑)をして
遊んでいるだけだといえます。
そして
私のサイトのヴァイオリンの音程の取り方のページにも書いたように
計算のやり方を習ってから、計算を正しく行う練習をし
文字の書き方を習ってから、文字を美しく書く練習をするように
音程の取り方を習ってから、音階やエチュードや曲を練習しなければ
バイオリンを正しい音程の美しい音で奏でることはできない…という
当たり前のことが、当たり前ではなくなってしまっているのです。
そうしたことから
『ヴァイオリンの松脂(松ヤニ)の正しい塗り方 襤褸(ボロ)が出る』
で書いたように
ヴァイオリンの音程の取り方と称して手の形や加減を論じていたり
ヴァイオリンの音程を取るのにチューナーやピアノを使っていたりしますが
それはあたかも
とはいえ
このブログでも何度もなんども書いているように
「日本語の用例集というのは、日本語を正しく綴る練習をするための教本」であり
「日本語の用例集を使うなら、日本語の文字の読み書きができていないと使えない」
のと同じで
そうしたことさえも、全く考えることもなければわかる筈もない人達も巷に溢れ
日本語の文字の読み書きもできないで日本語の用例集を使うかの如くに
音程の取り方もわかっていないままで音階練習の教本を復習う人が居る現状には
どうしてそのおかしさに気づかないのか?と思うばかりです。
音程の取り方を教わった…というものの、左手の形や右手の加減の能書きだったり
音階練習して良くなった…というものの、それっぽく(笑)熟れてきただけだったり
そのうち音程は良くなる…というものの、それらしく(笑)弾いているだけで
音程の取り方を習わなければ何時までも標識もなく彷徨うだけである人達が
溢れかえり続けているのです。
加えて
ヴァイオリンごっこ(笑)をしているだけなどということは決してなく
“絶対音感”を身に付ける…などということを謳うところがあったりしますが
“絶対音感”は不要で、重要なのは“相対音感”なのであり
さらにいえば、ヴァイオリンの音程を最終的に確定するのは
絶対音感でもなく相対音感でもなく線香花火音感?!』で書いたところの
線香花火音感なのです。
“絶対音感”などと言っていたり、個別具体的な音程の取り方を指導しない者は
ヴァイオリン演奏において重要な[イントネーション]の問題を解しておらず
挙句に
ヴァイオリンの音程を取るのにチューナーを使うことは愚行でしかないのに
自らはチューナーを使うことに対して寛容(はぁ?(笑))などと言い出したり
ヴァイオリン演奏に求められる[イントネーション]は往年の名手も素晴らしいのに
[ピッチ]でしか認識できないが故に、往年の名人は音程が悪い(はぁ?(笑))
などという素人丸出しの能書きを宣う者まで居たりします。
個別具体的な音程の指導ではなく左手の形や右手の加減を論じてみたり
個別具体的な音程の取り方などその場限りで駄目などと言ったり
ヴァイオリンは正しい音程で弾くと美しく響くことを知らないが故に
音程が正しくても音色が良くなければ…などと宣う偽教師は論外としても(笑)
個別具体的な音程の取り方は指導をせずに「音程に気を付けて」で済ませる
まさにヴァイオリンごっこ(笑)が横行し蔓延してしまっている現状では
それはヴァイオリンごっこ(笑)で偽物だ!…といくら綴ってみたところで
何の説得力も無いのかもしれません。
そこで
「音程に気を付けて」という台詞の無意味さ ~その1~(当記事)に続いて
「音程に気を付けて」という台詞の無意味さ ~その2~(次の記事)では
手の形や加減などというのは個別具体的な音程の指導ではないことが明らかになり
チューナーやピアノや「音程に気を付けて」という台詞だけでは全く通用しない
単純な譜例を実際に示してみたいと思います。
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カテゴリ: ヴァイオリン上達の指標